Science, Technology, and Entrepreneurship

政策研究大学院大学助教授。研究分野である、「科学技術とアントレプレナーシップ」に関することを中心に、日常生活で考えたことをお届けします。

社会に出て伸びる人、伸びない人 - SFC中高同窓会幹事会に参加して感じたこと(1) -


SFC中高同窓会幹事会

先週の土曜日に母校であるSFC中高同窓会の幹事会に参加した。私はこの同窓会の立ち上げから携わり、初代の運営の責任者を担っていたこともあり、組織として一歩一歩成長していることを見ることは、心強く思うと同時にうれしく思う。別に私の年齢を考えれば、同窓会の運営を引退して後輩に託すような年ではないのだが、ここ数年は自分自身の本業に専念するためにお休みをいただいており、今やこの幹事会への参加が私の同窓会への唯一の貢献となっている。

幹事会に参加する際には、同窓会の過去の役員経験者であることの責務として、同窓会全体のガバナンスについてきちんと責任を持つことは重要なミッションであろうと思っている。現役の役員や若手卒業生にとっては、私の発言が面倒(というかうざい?)に感じられてしまうであろうと思いつつもその責任は果たし続けたいと思っている。ガバナンス上、同窓会において重要な意思決定については、役員ではなく幹事会が承認することにより、現役の役員の責任を飛躍的に下げることができる。如何にして、同窓会においてリスクの高い事項を見抜き、その内容を短時間の間に幹事会としての決裁事項に落とし込むか。そして、一方でリスクの高くない事項については、幹事会で拘束することは一切せずに、現役の役員の自由度を最大限高めるか。この二つのバランスを保つことを念頭に置きながら、幹事会での議論に貢献していくことが、役員経験者としての責務であろう。

SFC中高の同窓会は今や15期生まで参加する大きな組織となっている。会員数は3000人を超えており、卒業時に入会金1万円を徴収しているわけだから、今までの通算の収入は3000万円を超えることになる。同窓会は法人格を持っていない以上、法律上は「人格なき社団」として位置づけられており、その公益性故に免税対象となっている。会員数、予算規模、そして公益性の担保、これらを考えていくと、同窓会運営の社会的責任は極めて重い。そこらの小さな株式会社よりも、適切なマネジメントが求められている組織である。

幹事会は、各期の代表が集まる最高議決機関である。上は1期生である32歳から下は15期生である大学1年生まで幅広い年代の卒業生が一つの会議室に集まる。毎年新卒業生(大学1年生)が入ってくる訳であるが、恐らく大学1年生にとっては、チンプンカンプンな議論が繰り広げられていることとと思う。そもそも議決権を持っているといっても、なぜ今このような議論が行われており、その議決にどのような意味を持つかも十分に分からない人も多いと思う。一方で、私がこの同窓会の立ち上げに携わるようになったのは1999年であるから今年でちょうど10年を迎えることになるが、今まで一緒に同窓会運営に携わっていた人たちの存在は心強い。古くから関わるメンバーを中心に、そこそこ自由闊達な議論が繰り広げられる。


幹事会に参加して感じたこと

ところで、今回幹事会に参加してふと感じたのは、社会人を経験している人たちの中でも、経験の差が随分開き始めているんだな、ということである。社会人にたって数年たつのに、物事を考えるにあたってのperspectiveや責任感が、学生と変わらない(もしかしたらmatureな学生以下かも知れない)人もいるように感じた。

私自身、大学にずっと残っている身である以上、決して社会経験が他の卒業生の方々と比べて豊富であるようにはとても思えない。また、私が考える「組織運営」や「責任感」の在り方が偏っている可能性も十分ありえる。という前提になってしまうのだが、それでも同窓生同士のperspectiveや責任感のgapを感じ始めた、というのが正直な感想である。

同窓会とは、そもそもは昔の仲間と再開する場である。「昔と変わっていない懐かしさ」がその良さの源泉であるはずである。久々に会った人たちと、懐かしさを共有する良さを今でも強く感じることは間違いない。でも一方で、SFC中高同窓会は若手の集まりである以上、「昔と変わらない」部分と同じくらい、「昔から比べて成長したこと」があるはずであり、その成長に基づいて相互に刺激し合うことも大きな魅力であろう。実際、今回の幹事会に参加して、社会に出て活躍している卒業生との交流でその刺激を沢山受けた。その意味では、その刺激を感じる人と感じない人の差が開き始めている、ということである。

一般論として、学生でい続けるよるよりも、社会に出て企業勤めをしている人の方が、遥かに色々な苦労や経験を積み、perspectiveが広がり、責任感も養われることが、普通であるように思う。では、私はなぜ私は一部の社会人にそれを感じないのか。


社会に出て伸びる人、伸びない人

この問の答えは難しい。そういえばSIVに参加している社会人の中にも、学生よりもimmatureで、学生と遊びにきたいだけ、という人にも多々であってきた。ここ数日、色々と考えてみた。よくよく考えてみると、社会に出て成長していないと思う人は、良くも悪くも学生時代のノリから抜けだしていないように感じた。幹事会でのbehaviorを見ていても、懇親会のふるまいを見ていても、学生とあまり変わらない。先輩としての、社会人としての自覚が感じられない。確かに同窓会というのは昔の仲間と集まる場だし、遊び気分で来る気持ちは分からなくはない。でも、これだけ大きくなった組織をまわしていく責任を持っている以上、遊び気分だけで成り立つような場ではない。学生がその自覚がないのは分かるが、社会人を数年経験してもその自覚を持たない人がいる。

そんなときにふと思い出した言葉が、SFC中高の目標である「社会的責任を自覚し、知性、感性、体力にバランスのとれた教養人の育成」である。 (http://www.sfc-js.keio.ac.jp/about/speech.html)私は昔からこの目標の中の、「社会的責任を自覚し」という言葉が好きだ。学校としてこのようなことを生徒に伝えられることができるとしたら本当に理想的であると思う。

さて、この言葉を思い出したときにふと気づいた。社会に出て伸びない人というのは、この「社会的責任を自覚」していない人なのではないか。そのような人は、確かに「社会的責任を自覚」していないという意味で、昔も今も全く変わらない。

そのようにして考えてみると、人間が生きていく上で成長していくにあたってのすべての源泉は、「社会的責任を自覚」することであるように思う。このときに見えている「社会」とは狭くても構わない。見えている視野の中で構わないからその社会的責任を自覚することが大事なのである。そして、その責任を自覚したら、新たな一歩を踏み出す。経験豊富な先輩の皆さんから見たら、「その行動は稚拙で、見えている社会が狭い行動だ」と思われるかも知れない。でも、本人がその責任を自覚してさえいれば、本人の成長と共に、必ず見えていく「社会」が広くなっていく。

良く良く考えてみると、同窓会幹事会のコアメンバーの人たちは、上記のような責任感を持って、日々苦労を重ねながら、成長してきたのではないかと思う。自分が見えている範囲で、責任を自覚し、日々がんばってきた人たちだ。そして、社会的責任を自覚していない人とは、年々差が開くようになっていく。

社会的責任を自覚していない人は、社会に出ても、大企業という「大きな樹」にしがみついているだけで、日々のルーチンワークをこなすだけ。仕事ではないこと、例えばゴルフなどの余暇を生き甲斐としているのであろう。もちろん、work-life balanceを考えるとその生き方は一つの生き方で、個人のpreferenceの多様性が重要なので決して否定すべきものではない。


同窓会に望むもの、そして目指すべき日本社会のあるべき姿

SFC中高同窓会は1期生ですらまだ32歳。過去を振り返って、「昔と変わっていない居心地の良さ」に浸るにはまだ早すぎる年代だ。そうではなく、お互いに日々の生活でがんばり、そのがんばっている姿を相互に見せ合うことで切磋琢磨し合えるような同窓会であって欲しい。SFC中高同窓会は、その方向へ向けて、確実に毎年新しい一歩を踏み出し続けている。この理念や志を見失うことなく、未来の展望を描いていきたい。

そのために一番大事なことは、SFC中高の目的である「社会的責任を自覚し、知性、感性、体力にバランスのとれた教養人の育成」という言葉に今再び、立ち戻ることかも知れない。

今回は、たまたまSFC中高同窓会の幹事会に参加したので、具体例がSFC中高同窓会を中心に取り上げたが、このメッセージはSFC中高に限られた内容ではなく、今の日本社会が目指すべきあるべき姿のように思う。たまたま私の母校はSFC中高なので、もしSFC中高同窓会がこういったカルチャーを強く持ち、慶應義塾から新しい光を社会に照らすことに貢献できたらいいな、と思う。



おまけ
今回、SFC中高同窓会幹事会に参加して、色々な「初心」を思い出しました。後いくつか感じたことがあるので、自分自身の決意表明として、その気持ちを忘れないために、このブログに何回かに分けて掲載したいと思っています。

それに加えて、今回のブログでは少し過激なことを書いてみましたが、本来同窓会というのはこういうことを考えないところが居心地の良さだし存在意義であるような気もします。切磋琢磨することの厳しさと同窓会というのはそもそも両立するものなのか、ここはもっと議論しないといけない論点のような気がします。