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Science, Technology, and Entrepreneurship

政策研究大学院大学助教授。研究分野である、「科学技術とアントレプレナーシップ」に関することを中心に、日常生活で考えたことをお届けします。

高校3年生のときに書いた小論文


原稿を手に入れました
先日のエントリー、"私が福澤諭吉に興味を持ったワケ"を書いてみて、私が高校3年生のときに受賞した小泉信三賞佳作の原稿を久々に読みたくなりました。その原稿が掲載されているはずの三田評論、いくら探しても、見つからず。。。先日SFCに行ったときにメディアセンターに行ってコピーをとろうとしたんですが、なんぜ15年も前のバックナンバーは保存されておらず。という訳で、今日三田に行く用事があったので、コピーをとってきました。

私が高校3年生のときに書いた論文です。今振り返れば、高校生らしい視野の狭さ&論旨なので、お見せするのは恥ずかしい気もしますが、これも一つの記録なので、ネットに公開しようと思います。ついでに、審査員の皆様のコメントも掲載しました(著作権的にOKかちょっと微妙だけど)。

「「福翁自伝を読んで」 -福澤諭吉に見る差別観-」というタイトルです。以下のURLからダウンロードすることができます。ご笑覧下さい。

http://www.kanetaka-maki.org-a.googlepages.com/kanetaka1995-koizumi.pdf


ちなみに、この原稿のコピーをとるときに初めて気づいたんですが、この号、山口英(すぐる)さんが寄稿なさっているんですね。こんなところで重なるとは、ご縁を感じました。


今更ながら加筆したいと思うこと

もう15年も前の話なので、今更感もありますが、その後成長した私が考える加筆したいと思うところがあります。

  • 当時の時代背景に基づいて、どのくらい今でいうところの差別用語が当たり前のように使われていて、福澤は相対的にどの程度先進的だったのか、という論証。
  • 福澤の意識は、国内や欧米に閉じられておらず、比較的グローバルであったように思う。例えばリンカーンの思想などをどのように感じていたのか。当時の世界的な人種差別撤廃の潮流をどの程度把握し、また自身はどのような思想を持っていたのか。

更に、この話に触れるのは、慶應義塾の中では微妙なような気がしますが、福澤自身が晩年、「優生学」を研究していたという点について、この差別観という観点からどう論じていくか、という大きな課題が待ち構えています。このポイントは私は15年前には全く気付いていなかった事実です。

一次資料にあたった訳ではないので、確かな情報だとは言えないのですが、例えば、時事新報社は水戸出身の人を多く採用していたがその根拠は、水戸出身の人は、遺伝子的に執筆能力の高いという仮説を持ってとのこと。時事新報にも、優生学についての記述があると聞きました。

福澤諭吉は、多才な人だったので、様々な顔を持っていました。教育者としての福沢諭吉、思想家としての福沢諭吉、啓蒙家としての福沢諭吉、経営者としての福澤諭吉、科学者としての福沢諭吉。福澤は、合理主義者である種のしたたかな一面もある人でしょうから、状況に応じて、これらの顔を使い分けていたのだろう、と思われます。

明治14年の政変以降から晩年へかけての福澤は、日本の行く末を不安視し、短期的に日本を改革するためには、優生学が重要、という考え方に至ったという説もあるそうです。もちろんそのときも優生学万能主義ということではなく、個々人の独立と学問の普及を推進する方針は変わらずだったようです。

という訳で、結果的には、優生学に極端に傾倒していた訳ではなく、日本の近代化のために、科学者としての福澤としての行動であったんだろうと思います。当時の最新の学問の一つだったのでしょうし。でも、一般論として、福澤諭吉は、教育者・思想家としての顔のイメージが強いので、その福澤が優生学の研究をしていた、というと違和感持つ人多いですよね。。。