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Science, Technology, and Entrepreneurship

政策研究大学院大学助教授。研究分野である、「科学技術とアントレプレナーシップ」に関することを中心に、日常生活で考えたことをお届けします。

祖母からもらった最後の贈り物

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ご存じの方もいらっしゃるかと思いますが、私は幼少時(3歳から10歳まで)に祖母に育てられました。私の生き方の信念や価値観、生き方そのものは祖母から教わったものです。気丈で凛としていて、仕切り屋で、クリスチャンとして信仰の厚い祖母に育てられたことは、間違いなく私の人格や人生観の形成に大きな影響を及ぼしています。私が辛いことがあっても常に励まし続けてくれたのが祖母でしたし、常に私を守り続けてくれたのも祖母でした。

この数カ月、祖母は、闘病生活でした。今思えば、昨年の夏くらいから体調が悪いと分かっていたものの、祖母は常日ごろから、「私は絶対最後まで家族に迷惑にかけたくない」と言っていて、家族みんなが医者に行くことを薦めても、「医者にいったら、医者は病気を色々見つけてしまうから私は絶対に行かない。」と言い張ったので、家族は誰も連れていけないままでした。そんな祖母も12月の上旬に転倒して入院した祖父の後に続くように、12月末に腹痛を訴えるようになり検査の結果癌と判明、1月上旬に入院しました。

そんな中で同時進行で、私は米国の大学院受験の受験勉強が進んでいました。TOEFLやGMATの試験勉強、Statement of Purposeの執筆、願書の執筆・とりまとめ、奨学金の面接、米国の大学の受験校への訪問、受験勉強のための生活費稼ぎなどがありました。それに加えて2010年3月でSFCを単位取得退学するためのフォーマル・プレゼンテーション審査(博士候補となるための試験)もありました。この祖母が苦しんでいた時期は、私にとっても人生を左右する最も大変な時期でもありました。

1月に祖母が入院したときに、私にはショックが大きく、なかなかお見舞いに行く勇気がないのも正直なところでした。また大学院のフォーマルプレゼンテーション試験と重なり、バタバタしていたこともあるのですが、お見舞いに行くタイミングが遅れてしまい、またあまり何度もは行けない時期でした。

2月に米国大学を訪問するための出張の直前に、祖父から「こんなに家族が大変な時期に海外に行くのか。」と言われ、私としては深く思い悩みました。特に私を育ててくれた大好きな祖母の容態が心配でたまりませんでした。そんなときに入院している祖母のところに成田に行く前に寄って、悩みを打ち明けたところ、「そんなことは気にするな」と祖母に強く励まされました。そして病院のエレベーターホールで別れるときに「あなたの人生はあなたの人生。人のことを心配するのは、人のことを心配できるようになってからにしなさい。」と言われ、私はその言葉は、自分にとっての唯一の「支え」となりました。本来お見舞いというのは、お見舞いする側が励ますものですが、お見舞いに行った方が祖母に励まされているのが実態でした。


2月中旬に祖母は退院、自宅療養となりました。その間に、歌舞伎にいったり、お芝居にいったり、買い物にいったり兄弟を家に呼んで食事を振る舞ったり、闘病生活ながらも楽しく過ごすことのできたひと時だったと思います。

一方私は祖母が病気と知りながらも、2月中旬には米国、3月中旬にはカイロ、5月上旬にはスイスのザンクトガレン、と海外出張は今まで通りのペースで行っていました。ところが、ザンクトガレンに出張帰りで、チューリッヒ空港にいるとき、父からメールで、「祖母が再度入院」という連絡をもらいました。帰りの飛行機は心配で一睡もできず、成田空港からリムジンバスで直接新宿ヒルトンホテルに直行し、ホテルの隣にある病院に駆けつけました。ちなみに祖母がこの病院を選んだ理由の一つは、海外にいる家族が多いので、成田空港から直接駆け付けられるところでした。そんなことまで考えてくれている祖母に本当に感謝です。やっぱり顔を直接見ることができるというのは、容態が万全でなくても本当に安心するものです。

祖母は病院ではなく、在宅を希望していましたから、病状が悪くなるにつれて、在宅看護の準備を父や叔母が初めていました。そして、祖母が病院で過ごす最後の日であった先週の木曜の夜に、私は祖母の病室に泊まり、一緒に色々と話すことができました。実は私はこの日まで、祖母の病状を正確には知らず、この日に祖母と付き添う直前に、家族からそんなに私が思っていたほど(私は後数年くらいに思っていた)は先は長くない、ということを知らされました。祖母は私と久々に二人きりでゆっくり話すことをすごく喜んでくれました。この一晩の祖母との会話は、祖母が意識がある間に二人だけでゆっくりできた最後の会話で、私にとって一生忘れられない一晩となりました。

自宅での看護体制を父と叔母二人が作り祖母が帰宅した後の1週間は、みんなで食事をしたり、会話を楽しんだり、祖母の念願であった、自分の部屋での生活をすることができました。


祖母は、一家の大黒柱として、一家を62年支えてきました。常に家族全員のことを考え、家族の"management"をしてきた人です。人生の最後の瞬間も、遺言を残すと家族が気を使うことになるのでそういったことは一切せず、でもこれからの家族全員がより幸せになるような工夫を、常に先のことを見越しながら、手を打っていました。

最後の最後まで、祖母のその先手を打つ見事さに感嘆したときに、今思うと、祖母は自分が入院する瞬間というのを真剣に考えていたのではないかと思いました。大前提として祖母は家族全体を考えているのですが、そのうちの一つの要素として、私が渡米するということを全面的に応援してくれてましたので、そのサポートを考えてくれていたのではないかと思います。私が受験の準備をしている間に倒れて入院すると、私が精神的に勉学に集中できなくなってしまうことを良く分かっていた。その点も最後まで病院に行くことを我慢し続けた一つの要因だったのではないかと思います。そして一方、私自身の渡米が決まった後も、祖母の容態が気になっていたので、渡米自体に、後ろ髪を引かれる気持ちでいっぱいでした。そんな状況の中、このタイミングで祖母が亡くなったことは、私にとっては結果的にその後ろ髪を引かれる気持ちがなくなったことになります。

ある一面だとは思いますが、私の人生というスコープから見れば、祖母は私の受験の邪魔を決してしないタイミングで入院し、そして渡米するにあたっての最適のタイミングで、後ろ髪を引かれる部分を取り除いてくれた、ということになります。祖母が命をかけてつないでくれた私の新しいステップに踏み出すチャンスを大切にしろよ、という強烈なメッセージを祖母からもらったように思います。今思えば、清水の舞台から飛び降りるかどうかを悩み続けていた私にとって、私が祖母から最後にもらった贈り物は、「人生の新しいステップに踏み出す勇気」だったと思います。


本当に最後の最後まで、家族みんなを幸せにさせることを一生やり続け実現させたまさに「あっぱれな人生」を過ごした人でした。祖母はクリスチャンですので、教会での葬儀も行うことになるのかと思いますが、家族で話しをしていて、そして私自身の強い希望でもありますが、メインは追悼や別れではなく、"A Celebration of Life"形式で、祖母の人生そのものを祝福したいと思っています。