Science, Technology, and Entrepreneurship

早稲田ビジネススクール准教授。研究分野である、「科学技術とアントレプレナーシップ」に関することを中心に、日常生活で考えたことをお届けします。

ゼミ合宿までの課題: 新聞の「おくやみ記事」を参考に、自分の未来の経歴をまとめてみる

 

MBAの役割は学生の皆さんのキャリア形成をサポートすること。ゼミはそのサポートの中核としての役割を担うものです。ゼミが始まるキックオフの合宿では、ぜひ皆さんが今後のキャリアにどんな展望を抱いているか、ということを本音で語り合う場にしたいと思います。

でも、「皆さんのキャリアプランは?」と聞いてもなかなか答えが出てこないと思うので、少し違ったアプローチを取りたいと思います。

合宿までの課題として、皆さんには、新聞の「おくやみ記事」を参考に、自分の未来の経歴をまとめてきてもらいます。新聞の「おくやみ記事」というのは、生前にその人物がどんな業績を残したかが簡潔にまとまっています。 自分の今後の人生をイメージしながら、自分がこれから達するであろう業績を記事としてまとめてみて下さい。

この課題は、米国のビジネススクールなどのコーチングにおいて用いられている課題を転用するものです。この設問に不快感を持った方はごめんなさい。米国のコンテクストと日本のコンテクストは異なるとも思います。でも、自分のこれからのキャリアを考えてもらうために、これ以上良い設問を今のところ思いついていません。 これからのキャリアの展望を聞かれるよりも、具体的に考えられると思います。

この設問で答えて欲しいことは言い換えれば、「あなたは何をもって人に覚えられたいか」ということです。そこを明確にしておくと、これからの人生の中で自分がどんな風に時間を使うと良いか、考える指標になるかと思います。

この課題は、その課題の性質上、オプションとしますので、出さなくても成績に不利になることはありません。また必要に応じて、設問自体を趣旨をかんがみた上で変えてもらっても構いません。例えば、「あなたは何をもって人に憶えられたいか」を箇条書きでまとめるなど。また「私は新聞のお悔やみ記事に載るような人生は過ごしたくありません。」という回答も100%尊重します。

 

日経新聞での「おくやみ記事」の例

ソニー創業者、名誉会長盛田昭夫氏死去。 掲載日:1999/10/04 媒体:日経産業新聞 ページ: 27 文字数:740  

ソニーの創業者の一人で社長・会長を歴任したファウンダー・名誉会長の盛田昭夫(もりた・あきお)氏が三日午前十時二十五分、東京都港区の東京都済生会中央病院で肺炎のため死去した。七十八歳だった。戦後、故・井深大氏と会社を興し、トランジスタラジオをはじめ革新的な電気製品を相次いで商品化。ソニーを高いブランド力と競争力を持つ国際企業に育て上げ、故・本田宗一郎氏とともに戦後日本を象徴する経営者として高い評価を集めた。(関連記事28面に)

自宅は東京都目黒区青葉台二ノ五ノ六。通夜は四日午後六時三十分から、告別式は五日正午からいずれも自宅で開く。喪主は長男、英夫(ひでお)氏。社葬は別途行うが、日取り、場所は未定。

盛田氏は一九二一年(大正十年)一月二十六日に名古屋市で生まれた。大阪大学理学部を四四年に卒業。旧海軍技術中尉時代に井深氏と知り合い、四六年に東京通信工業(現ソニー)を設立した。七一年に社長就任。七六年に会長、九四年十一月からはファウンダー・名誉会長に就任した。

豊富な海外人脈などを生かし、日本を代表する論客として対外活動でも功績を残した。六〇年代の日本製テレビの対米輸出ダンピング疑惑、七〇年代の米国のユニタリータックス(合算課税)への反対など日米貿易摩擦の解決に尽力した。八六年から九二年まで経団連副会長を務めた。平岩外四経団連会長(九〇年十二月―九四年五月)の後継最有力候補と目されていたが、九三年十一月に脳内出血で倒れ、公式の場から遠ざかった。日米経済協議会会長も務めた。九一年に勲一等瑞宝章を受章した。

「学歴無用論」「MADE IN JAPAN」などの著作があるが、石原慎太郎氏(現東京都知事)との共著「『NO』と言える日本」が米国で反発を買ったこともあった。

 

その他、過去の学生(学部生)の提出課題の例。学生からの提出された課題について、個人情報に関する部分を削除し、またいくつかの内容を組み合わせるなどの改編を行なっています。

 

XX氏は1985年X月XX日に東京で生まれ、4-10歳までアメリカで過ごした。XXXX大学を卒業した後に、XXXXに就職した。自分を誇れない日本人に疑問を感じ、「地元に対する帰属意識」が芽生えるきっかけとなる授業を開発し、全国の高校で普及させた、退職し、MBAを取得した後に2020年に教育とビジネスコンサルタントサービスを貧しい農村に提供するサービスをインドを中心に提供し、途上国支援の新しい形を提示した。

XXXの創業者で社長・会長を歴任したXXX(XXX・XXXX)氏と思われる遺体が30日の未明アフガニスタン北部で発見されました。死因は不明。63歳だった。2007年XXXX大学在学中に仲間数名とソーシャルマネージメントサービスのXXX株式会社を海外5カ国で同時に設立。設立時から世界的な展開を考えていた。同年に卒業後も同社の経営をする。創業3年目でマザーズに上場するとともにインターネットサービス主体から、今のXXXポケットの前身である個人倉庫サービスを開始。X氏は2030年に同社のすべての役職から引退。引退後は資産をもとに孤児院グループを世界各地に設立に奮闘する。

XXXXグループ会長、XXXX氏死去
XXXXグループ立ち上げの一人で、会長のXX氏が死去した。XX氏は同じく創業者のXXX氏と2006年にXXXX社を立ち上げ、ネットメディア媒体やゲーム業界、コンテンツ制作、映画業界に優秀な学生のクリエイターを送り込み活躍させ、現在の学生クリエイターのクオリティの高さを証明した先駆者であった。その後海外の市場にも日本の高いクオリティのコンテンツや人材を送り込み、現在の日本の文化やクリエイターが評価される時代の先駆けを作った。25歳で当時の最年少上場を果たし、30歳でXXXXグループ会長に就任する一方で、「アントレプレナー精神をもう一度」という名言を実行し、XXXXグループ子会社XXXX社の社長に就任。世界を揺るがす先進技術の開発と、新しいシステムを開発しつづけ、日本が名実ともに世界一の技術大国かつ創造大国であることを証明した。その後日本企業の海外誘致や、海外企業の日本誘致を積極的に行い、日本企業の国際的活躍の場を提供しつつ、日本のグローバリズム化に成功した。

株式会社ちょっとそれヤバいんじゃないの!(以下ちょヤバ。)を創立した名誉会長のXXXX(XXXX)氏がハンバーガーの食べ過ぎにより東京都武蔵野市の自宅にて死亡した。XX氏は米国の投資銀行に勤めた後、旅行会社メロン証券を設立、トマト銀行に次ぐ変わった名前の会社ということで非常に注目を集めた。その後、武蔵野市の市長に就任、カジノの設立や、東京都から独立宣言を行うなど全国的な注目を集めた。ちょヤバはXX氏が60歳の時に設立した服のデザイナーズブランドでフランスの高級ブランドであるエルメスにM&Aをしかけるなど、XX氏特有の攻撃的な手法で急成長してきた。今度パリコレクションに出品が決まるなど転換点が迫っており、XX氏の死亡が悔やまれるところである。

Ayona創業者の一人であるXXXX氏が今朝11時30分に癌により死去した。百五歳であった。21世紀初めのIT革命後、ベンチャー企業が数多く設立される中、学生の頃からベンチャーを立ち上げ成功を収めた。「20世紀前半は国のため、20世紀後半は会社のため、21世紀前半は自分のために働こう」という彼の名言はあまりにも有名。会社という組織のあり方に根本から革命を行い「会社進化論」はベストセラーとなる。成功報酬型で出勤時間等がなく今となっては当たり前だが、当時の年功序列時代には斬新な会社過ぎて入社希望者が溢れてニュースにも取り上げられるほど。そして、数多くの投資事業にも携わり、ベンチャー企業のMaLibuやPokaなどユニークでエンターテイメント性のある会社に投資を行い会社という組織を変えて行った。20世紀はお金を稼ぐために仕事をしていたが、彼の会社設立後から徐々に自分がやりたいから、楽しいから会社をやるというのをモットに、当時は部活のような企業ということで話題を呼び、会社革命児とも呼ばれた。「楽しくなきゃ仕事じゃない」はどの会社の社訓でも採用をされている。

60歳をすぎた頃から世界一周旅行など世界を見て貧しい国に対して革新とボランティア事業にも数多くかかわり、64歳でノーベル平和賞を受賞する。

90歳を超えてもなお現役で活動する姿は社会のお手本となる。