Science, Technology, and Entrepreneurship

早稲田ビジネススクール准教授。研究分野である、「科学技術とアントレプレナーシップ」に関することを中心に、日常生活で考えたことをお届けします。

「人道に対する罪」とは? グローバルガバナンスにおける主観と客観

サダム・フセイン元イラク大統領が絞首刑となった。フセイン政権時代の、フセインの虐殺、恐怖政治などを含めて、確かに民主主義の観点からの暴君であるという判断に理解すべき点が多いことは確かである。しかしならが、今回の絞首刑、私としては明確に反対という訳ではないが、違和感を持っていることは確かである。

その違和感の最大の要因は、「人道に対する罪」とは何か、というところにつきる。裁判というのは、国家が制定した法律に基づいて、有罪・無罪を判別するものである。しかしながら、「人道に対する罪」とはそもそも論として法律にて明確に定義することは不可能な領域であるように思う。法律的根拠を客観性と呼ぶのであれば(厳密にいえば法律ですら人間の制定したものであり100%客観性があるとは言いがたい気がする)、「人道に対する罪」というのは、法律に基づかない、権力者の主観である。

国家、法律、裁判、ガバナンス、全ての観点から最重要であるのは、「完全な客観性というものはありえず、ある程度の主観性が入ってもいたしかたないという妥協的精神を持ちつつも、最大限客観性を保つ努力をする」ということであろうと思う。

イラク戦争、フセイン裁判、フセインの絞首刑、このどれもが、主観的に考えた場合、ある程度の妥当性があると感じさせる根拠があることは確かである。しかし、この一連のプロセスにおいて、どれだけ「客観性を担保することの努力」があったのか、そこがどうしても腑に落ちない。

今回の絞首刑執行においては、「米国の関与なしにイラク国民が自ら決めたものである」という声明があった。しかしながら、イラク暫定政府自体が米国の後押しに基づいて発足したものである、どれだけイラク国民全体の客観性を担保したのか、というところは依然として疑問である。

歴史自体は、時の権力者の「客観性」と「主観性」のバランスにより、刻まれていく、というところは、現実的に今の人類が持ちうる一番ましなガバナンスシステムであることは確かである。その観点からいえば、今回の絞首刑を明確に否定するつもりはない。しかしながら、人類のガバナンスの力の向上を目指していくのであるとすれば、改善点は沢山ある。

今後の人類全体のガバナンスにおいて、「人道に対する罪」といった主観性ではなく、仮に「民主主義」、「資本主義」が人類が生み出した社会システムの中で最もましなシステムであるとするならば、死刑執行などの極めて重要な判断においては、最大限の客観性の担保を行うための議論・判断が今後のグローバルなガバナンスにおいて重要なのではないかと思う。

フセイン元大統領の虐殺についても、もちろん虐殺行為というのは罪である前提としながらも、イラク内の民族、宗派の対立などの政治的な理由の虐殺であったことが十分考えられる。もちろん政治的な理由に基づいた虐殺は本質的に許されるものではない。しかしこの価値観は十分民主主義が浸透している社会における判断であるように思う。民主主義が浸透していない世界において政治的な虐殺を行った場合、この裁判を民主主義が浸透している社会の価値観で裁くことには疑問を持つ。なぜならばその当事者は民主主義価値観を学ぶチャンスが十分でなかったことがありえるからだ。

今回の出来事に関する教訓は、権力を持った人材がガバナンスをいかに行っていくか、ということであるように思う。本質的に権力者は、独自の「主観」に基づいて、その主観に基づいた「客観的なロジック」を容易に構築することが可能なポジションにいる。この危険性を深く理解しながら、意思決定を行うことの重要性を改めて考えさせる出来事であった。