教育にガバナンスは成り立つのか (内田さんのブログから思うこと)
内田さんのブログはそこそこ前から愛読しているのですが、「教育基本条例について」について思うことがありました。
内田さんの主張は、「教育というのは政治が介入することによって良くなるものではない」、ということなのです。この主張について、自分自身の経験から、なぜ教育はマーケットメカニズムや民主主義が機能しづらいかをまとめてみようと思います。
大前提として僕は内田さんの著作は、「先生はエラい」や「街場の教育論」あたりから注目して、割と読み込んでいて、内田さんの論考には一定の敬意を持っています。
僕自身20代の頃に、大学で教員をやり、後半は授業を担当していましたが、その経験から思うのは、教育においてのstakeholderは誰なのか、ということです。勉強してる学生本人?学費を払っている親?補助金出してる国?寄...付くれる卒業生?僕が授業持つときに先輩の教員から教わったのは、教員のstakeholderというのは「近未来の日本」だということで、その視点を忘れないようにしようと思っていました。
僕の担当していた授業は、「アントレプレナー概論」だったので、教育の場であると同時に、ベンチャー育成も求められる。いわば、大学にありながら、マーケットメカニズムも求められる授業でした。でも、アントレプレナー概論で授業として大切なのは、ベンチャーを生み出すことではなくて、学生に「自分がやりたいことを見つけて、その夢に向かって突き進んでいくという自分らしい生き方をする人生もあるんだ」という選択肢を提供することが大事で、その学生の選択肢が増えることで評価されるべきであって、ベンチャーが何社生まれたかが最も大事な評価ではないと思っていました(でもそれいうと、マーケット支持者からは負け惜しみと言われます)。
加えて、この授業は寄付講座だったので、寄付してくださった企業がいて、次年度の継続は毎年評価があり、企業にとっての寄付の意味があるかどうかを示さなくてはなりませんでした。多様なインセンティブの異なるstakeholderがいて、そのインセンティブを一つの方向にあわせていくのがマネジメントで、それも僕の仕事でした。僕の興味はたまたま大学と産業界の連携でしたから、このようなマネジメントも大切なものとしてやってましたが、他の分野の教員がこれをやらないといけないとしたらつらいかも。。すなわち、教員がIRばかりに気をとられるようになってしまったら、本来的な業務がやれなくなってしまう。その意味で、内田さんの「先生はエラい」には一定の説得力がある。というか、そのメカニズムがないと、先生たちが持たないというのもあるように思います。
消費者の成熟はもちろん尊重されるべきものですが、そのときのベクトルがどこに向いているのだろうとも思います。大学にいると、少なくとも保護者からは「良い企業への就職につながる教育」を求められるし、その指標においては確実に成熟しつつあると思う。ちなみに僕は「就職支援は大学の授業に求められることではない」と言い切ったらAERAにたたかれましたが。でも一方で、「学生が将来親になったときにあの先生は本当に良かったから自分の子供にもあの先生に学ばせたい」と思ってもらえるような指標においての成熟も求められているように思います。教員がそれを追い求めるような余裕も必要なのかと。
でもガバナンスのない組織・人は必ず腐敗することも事実。僕は教員を6年間で辞めたから良かったけど、これずっとやってたら、少なくとも自分自身は腐敗する一方だったな、と思ってもいます。教育の中身は教員を信頼して任せるとしても、教員としてのプロ意識や倫理観の腐敗を防ぐためのガバナンスは必要で。。
教育行政のガバナンスをどのように設計すれば良いかは本当に難しい課題です。