Science, Technology, and Entrepreneurship

早稲田ビジネススクール准教授。研究分野である、「科学技術とアントレプレナーシップ」に関することを中心に、日常生活で考えたことをお届けします。

感動する場としての大学と「変なやつ」


はじめに
まだ読み途中なんだけれども、Malcolm Gladwell氏のOutliersを今更ながら読んでいます。去年の秋くらいからアメリカ出張の度に、この本が本屋で平積みになっていて、何て言ったって、Gladwellといえば、"Tipping Point"を書いた人ですから、きっとこれも流行るだろうなと思っていたけれども、時間が過ぎ去ってしまっていました。勝間和代さんが翻訳し、日本語訳が最近出版されましたね。時代遅れにならないように読んでおこうと思いますが、Gladwell氏の英語は読みやすいので、原文で読むことにしました。


Outliers: The Story of Success

Outliers: The Story of Success


ちなみに日本語訳はこちらです(私は買ってませんが、英語が極端に苦手な方のために)。


天才!  成功する人々の法則

天才! 成功する人々の法則


この本、まだ全部読んでないんですが、"Outliers"は、統計学でいうところの「外れ値」を指す言葉です。日本語訳では、タイトルで「天才!」と表現していますが、どちらかというと「変なやつ」っていう表現の方が原書のタイトルに近いと思われます。日本語で「変なやつ」というと褒め言葉じゃないけど、アメリカで言えば褒め言葉のニュアンスが強い。このあたりの日米の感覚差も結構大きいですよね。日本に生まれるか、アメリカに生まれるかによって、決定的に人生が左右される、という現状を良く表しています。

この本、要は世の中で、突き抜けてる「変なやつ」が育つにはどういう条件があるのか、ということを色々な角度から分析しています。スポーツ選手は、何月生まれによって影響されるとか、ITエンジニアは何年生まれが最も才能が開花しやすいか、とか。学術的な分析としては甘いですが、なるほどなぁ、と思うところが沢山あります。

この中の一つで、サンマイクロシステムズのfounderであるBill Joyがなぜ突き抜けることができたか、ということが書かれていました。丁度Bill Joyが大学に入学した頃というのは、タイムシェアリングシステム(TSS)が普及しだした頃です。それまではパンチカードを使って大型機に並んで自分のプログラムを実行するという生活だったのが、TSSによって激変します。いつでも自分の書いたコードを実行することができるようになった。このような環境になって初めて、エンジニアはプログラミングに没頭することができるようになります。没頭できる環境は、優秀なエンジニアにとって必須条件。という訳で、Bill Joy世代には、エンジニアに優秀な人が多いということだそうです。そういえば、僕は大学2年生のときの村井さんの授業でTSSについて習って、その概念は面白いなと思った覚えがあります。でも、その当時TSSがこんなに大きな社会的インパクトをもたらしたということは全く持って気付きませんでした。


大学における感動
この話を宮地さん(サイバー大学教授)にしたところ、「私はまさにその世代。TSSの導入によって途中から列に並ばなくても、プログラミングが実行できるようになった。このときは便利になったということ以上に「感動」があった。」と言っていました。

この「感動があった」ということ、実は本質的に大学で一番重要な役割なんじゃないかと思います。自分自身振り返ってみても、僕は高校3年生でインターネットに出会い、新しいコミュニケーションインフラとしてのインターネットに感動しました。そしてSFCに進学して、そこで「自律・分散・協調」という概念に出会うことになります。この概念はもちろん、インターネット技術として学んだ訳ですが、私が感動したのは、その技術ではなく、その思想そのものです。人間社会の在り方として、今まではヒエラルキーな仕組みを作り人間性を殺した制度しか人類は持っていなかったけれども、その規制概念をひっくり返すことができる。このときの衝撃は、自分自身の思想の原体験になっています。世界が変わる歴史的な流れの中にいる、と当時思ったものです。

大学という場は、学生が「感動」に出会う場でなくてはなりません。加藤寛さんが引退するときのスピーチで、カーライルの言葉を引用し、「1年生の皆さんはびっくりして下さい。びっくりするところから学問は始まるんです。」とおっしゃっていました。この「びっくり」とは「感動」に置き換えても良いと思います。

さて、今我々は、これから社会に出ようとしている学生たちに、「感動」の場を提供できているのでしょうか。もしそれができていないとすれば、本当に次世代は育つのでしょうか。もしこれが継続的にできないとすれば、「感動」に学生時代に出会えるのか、ということは、人生を方向づける決定的な要素ですから、そうすると何年に生まれたのか、ということは極めて大きな要素になってしまうのかも知れません。もちろん、分野によっても、感動する、しないはあると思います。


SIVからその後の展開
私がSIVを立ち上げたのは2002年です。大学におけるインキュベーション・システムを作るという活動は先進的でしたし、日を追うごとに常に進化し続けたSIVを目の当たりにできた2002年直後に入学した世代は、この活動から「感動」を得ることができた人もいたような気がします。ちなみに、これは2002年直後の入学じゃないとダメなんです。それより早いと、SIV自体が未成熟の間に卒業してしまい感動がない。それより遅いと完成しすぎていて感動がない。本当にこの感動への「ウィンドウ」が開いていた期間というのは短いです。もちろん、日を追うごとに肥大化するこのコミュニティにおいて、そこに携わっている人たちの魅力に「感動」した人は、継続的にいたんじゃないかと思います。

ちなみに、「エコシステム」モデルというのは、私が学生時代に感動した「自律・分散・協調」の概念をインキュベーションのシステムに応用したものです。SIVが切り拓いてきたこの「エコシステム」という概念に、「感動」を持った人もいるんじゃないかな、という気が直観的にしています。

SIVSG(國領研)は割と前半から中盤にかけたタイミングが「ウィンドウ」だったと思います。なぜなら後半はアントレプレナー育成の週軸・フロントエッジが「アントレプレナー概論」に移行したからです。初期のSIVSG(國領研)や後半の「アントレプレナー概論」はどれだけ学生が、「感動」するきっかけになったのでしょう。少しでも役に立ったことがあれば、望外の喜びだな、と思います。

私がそれぞれの分野でどのくらい価値を出せるほど成熟していたか、そして私がどこをフロントエッジに位置づけているか。この2点によって、関わった方々が感動を得られる領域ごとの「ウィンドウ」が限定されてきたように思います。ちなみに、そこを適切に見抜くのがうまい学生もいて、感心した覚えがあります。

といいつつここは私の思い込みや自己満足なような気もするので、このブログをご覧いただいた人に、ぜひ感想・批評・反論をコメント等でいただければと思います。

ところで、私は今SIVモデルは過去のものとしてもうフォーカスの中にはなく(これは過去の活動を否定している訳ではありません。私の興味が変わったということです)、新しい研究領域に踏み出しています。この研究には私自身に日々感動があります。もう少しこの研究が自分の中で成熟できれば、社会制度としてのimplementationも可能になるように思います。私は勉学に専念したいので私がimplementationに携わることはありませんが、そのデザインを発信し続けて、私ではない誰かに実現していただけるような仕掛けを考えています。そうすると、また新しい感動の場を提供できそうな気がしています。もうSIV時代に見ているスコープとは全く違う世界を見ている自分がいます。


蛇足
ところで、このときの感動というのをもっと広くとらえて良くて、「技術」、「思想」、「理論」、「概念」だけに限定しなくてもいいいのではないかと思うんです。一番大学で得られやすい感動は、「変な人に出会うこと」だと思います。変な人に出会って、「こんな人も世の中にいていいんだ。」ということを知れれば、確実に自分の視野は広がります。それも一つの大事な大学で得るべき「感動」であると思います。そういえば、私は結構いろいろな学生に、「変わった人」「変わった生き方をしてる」、と良く言われてきましたから、もしかしたら私自身も少しは学生に「感動」を提供できているかも知れません。

そういえば、昔、冨田さん@環境情報学部教授に、「牧君も変わってて怪しいよね。」と言われたことを思い出しました(ご本人は覚えていらっしゃらないと思いますが)。思わず、「あんたにそんなことは言われたくない」と思いましたが、良く考えたら「牧君「も」」という表現だったことに納得して、言い返しませんでした。